井之頭五郎の食べる行為から『ずっとやりたかったことを、やりなさい』の理解を深める
私は今ジュリア・キャメロンが書いた『ずっとやりたかったことを、やりなさい』という本を読んでいる。
きっかけは3人目の子どもを出産し育休を取得し、家で過ごすことが多くなり、家事育児へのプレッシャーに押しつぶされそうになったからだ。
産後うつかもしれないと思い産後うつ関連の動画を見ていたなかで、たまたま岡田斗司夫さんの動画に出会った。
その動画では、モーニングノートとアーティストデートと言う言葉がキーワードであったけど、動画の内容を聞いてこれが私の心を変えるかもしれないと思ったのだ。
善は急げと楽天ブックスで『ずっとやりたかったことを、やりなさい』を購入し、現在著書に記されているエクササイズに取り組んでいるというわけである。
内容が気になる方は、コチラ↓をどうぞ。
さて、この動画がどう『孤独のグルメ』とつながるのかというところである。
自分の人生で悩んでいる方はこのブログを読んで少しでも心が楽になってくれればと思う。
私が好きな『孤独のグルメ』のついて
私は2番目の子どもを産み授乳をするときに、『孤独のグルメ』を見るという癖がついてしまった。
授乳というのは本当に大変な育児の一つだ。自分が家事してようが寝ていようがお構いなしに赤ん坊は腹を空かせて泣いて訴える。
私もほったらかしにするわけにはいかないから、もちろんしんどくても授乳しなければいけない。
特に産んですぐというのは、赤ん坊もおっぱいを飲むのが下手くそだから、乳首が切れたりおっぱいが張ったりとトラブルも多い。
日中はまだ気力があるからいいが、夜中の授乳はさらにしんどい。みんなが寝静まり真っ暗な中一人で眠い目をこすりながら授乳する行為が本当に孤独を感じさせる。
そんなうつうつとした気持ちを紛らわすべく、何かテレビを見ながら授乳しようと思いついたのだが、数ある選択肢の中から私は『孤独のグルメ』を選択したのだ。
『孤独のグルメ』の良いところは、ストーリーの展開が決まっていることだ。
五郎さんがクライアントのところへ赴き打ち合わせをし、仕事がひと段落すると腹を空かせて好きなものをただ食べる。という単純なストーリ。
ただのサラリーマンの日常と食べるだけの映像は特に大きな感動を生むわけではないが、授乳でうつうつとした私の心をこの淡々としたストーリーが癒してくれるのだ。
だから3番目が生まれた時も授乳中や、子育てで心が辟易したときにはかならず『孤独のグルメ』を見てしまうのである。
『ずっとやりたかったことを、やりなさい』を通して私らしく生きる道を選んだ話。
『ずっとやりたかったことを、やりなさい』の中のエクササイズを現段階で進行中なのであるが、1週間ごとに課題が与えられそれを12週間継続することで創造的な力が回復するというのである。また誰でもアーティストになれるというのである。
正直「何言ってんねん?」と疑いの心であふれているのだが、著者は課題を進行する中で疑いの心が芽生えるのは当然であると述べている。
また、論理脳(左脳)とアーティスト脳(右脳)に触れているページがある。
左脳は常識を照らして世界を近くするものであり、右脳は発明者であり、子どもであり、常識にとらわれない自由な個人教授なのだそうだ。
つまり私は、大人になった私たちは左脳ばかりを使って常識的に生きているあまり、右脳を使うのを忘れて息苦しさを感じていると解釈している。
確かに結婚し子どもを育てるにあたってかなり常識にとらわれていることは事実だ。子どもが社会で困る子となく生きていけるよう、社会の常識の中で生きていけるよう躾をしているし、家事をしている。
ただ時としてその行為が息苦しく感じるのだ。心の中でいつも「常識ってなんだよ」「こんな人生つまんねぇよ」と叫んでいることも事実だ。
『ずっとやりたかったことを、やりなさい』を読みながら「つまんねぇよ」といっている私の声に耳を傾けざるおえなくなってしまった。無視できなくなってしまった。著書の中の人生のほうが楽しそうだと思ってしまったのだ。
常識的に子どもを育てることは大事かもしれない。だけど、それで大人が窮屈な生活をする姿を見て育った子どもの心は健全に育つのか?
子どもは言葉で何かを伝えるより、見て学ぶことのほうが多いと私は思っている。だからどんなにすばらしいことを言葉で伝えても子どもの心の中には残りにくし、たとえ残ったとしても、親が言っていることと違うことをしていたら子どもが理不尽に思うのは当然だし、大人になったら『詰まんない人生を送る』というモデルを植え付けてしまっているのではないかと思うのだ。
私の心の中には「常識を教えたい」ともう一方で「自分の人生をめいっぱい楽しんでほしい」と思う私もいるのに、自分自身が楽しめていなければ子どもにとって「人生を楽しむ」ということが何なのかわからないのではないか?
そんな風に私は心の中で思っているから、『ずっとやりたかったことを、やりなさい』を通して「私らしく生きる方法」を模索したいと思ったのである。
井之頭五郎の”食べる”という行為はアートだという話
『ずっとやりたかったことを、やりなさい』を読んでいると、「あなたが本当にしたいことはなんですか?」「あなたが本当に好きなことは何ですか?」と訴えかけることが多い。つまり創造的な行為というのは、義務的に行うことではなく、主体的に、「自分がやりたいからやる」ことなのだと解釈している。
ある課題の中で、「歴然としているくだらない習慣を3つリストアップしよう」というものがある。
自分が何をリストしたかは秘密にしておくが、その中で”動画を見る”ことが思い浮かんだ。正直、YouTubeで何となく見る行為は無駄だと思うが、『孤独のグルメ』を見る行為は無駄だと思わなった。
なぜだかわからなかったのだが、よく考えてみると井之頭五郎の食べるという行為は、
誰からも邪魔をされず自分が食べたいものを食べるという孤高の行為
ダカラだと思いいたった。
そう、冒頭のオープニングでナレーションするあの常套句。
井之頭五郎の食べるという行為は創造的な行為なのだ。「今何を食べたい気分なのか?」と問いかけながら店を選び、「何を食べようか?俺の胃袋は何を求めている?」と問いながら食べたいものを選ぶ。そして食べ方もまた自由だ。味の濃いたれや汁があればご飯にかけて猫まんま風にして食べるし、大好物のクリームコロッケにタルタルソースをかけてしまう。私からすれば非常識な行為なのに、井之頭五郎は「自分がやりたいからそうしている」のであるし、誰の目も気にせず自分の食事の時間を満喫しているのだ。
つまり私にとって井之頭五郎が食べる行為は、とても創造的で主体的で自分の人生を楽しんでいる象徴なのだと思いいたった。
別に食べる行為だけでなくてもいいと思う。現に著書では、お料理やお裁縫、スイミングやランニングなどが創造性を回復するのに役に立つと述べている。
大事なことは「私がやりたいことをやる」「そしてその時間とにかく集中して楽しむ」。
誰からも邪魔をされず自分がやりたいことをやる。それが孤高の行為なのだ。
そう。私は井之頭五郎のように振舞いたいのだ。そして『ずっとやりたかったことを、やりなさい』の著者が言いたいことはそういうことなのではないかと考えている。
まとめ
社会で生きることは非常に息苦しい。いや、常識的に生きることが息苦しいと言い換えても良いのかもしれない。
もし今自分の人生に息苦しさを感じていると思っているのであれば、自分の生活の中でどれだけ自分のために時間を使っているか振り返ってほしい。
仕事があるから、子育てがあるから、はただの言い訳にしか過ぎない。非常識になれない自分に言い訳しているだけなのだと思う。
と偉そうなことを言っているが、現に私も非常識に生きたいと願いながら常識である安全な道を選んできたのだから人のことは言えない。
でも自分の人生あっという間に終わってしまう。いつか時間ができることを待っていたら、いつの間にかこと切れてしまうかもしれない。
自分の人生最高だったと言って死にたいじゃないか。お母さんの生き方最高だったよなと思って見送ってほしいじゃないか。
そんな人生のゴールのために、私は創造的に生きる道を歩んでみようと思う。
(まだ始めたばかりだしどんなふうに変化するかはわからないから、また変化があれば書きたいと思う。)